また、そもそも「education」の語源は「引き出す」であることが知られている。『オックスフォード英単語由来大辞典』によると、「education」の動詞形「educate」は「(子供を)育てる」という意味のラテン語の動詞「educate」に由来し、「外まで導く」という意味の「educare」と同系であるとされている。そして、「educare」から「能力を引き出す」という意味の「educe」が生まれたと書かれている。
従来の「教育」観や、ここまで述べてきた内容を踏まえると、「教育」とは知識を渡す、いわば「押し付ける」イメージがあるが、「(能力を)引き出す」はその逆であることは興味深い。ただ、「引き出す」の主語はおそらく引き出す側であり、恣意性は否めない。しかし、「educate」の「外まで導く」というのもとてもいい言葉であると感じる。「学校」の「教室」で「先生」が黒板を使って「教える」のではなく、多様な人・モノ・コトに触れ合える場所に連れ出せば、子どもだけではなく、大人にも自然と学びが生まれる。「導く」の主語も導く側だが、導かれた側の学びはその後に、その外側で起こる。(もしくは起こらないかもしれない。)
そもそも、「教育」という言葉を「発育」や「保育」、「薫陶」などの他の言葉に置き換えるのか。それとも「教育」の読み方は残して「きょういく」または「キョウイク」、「共に育つ」で「共育」、「協力して育つ/育てる」で「協育」などのように表記を変えるのか。はたまた語源である「education」のままにするのか。さまざまな選択肢はあるが、どれが一番ふさわしいかを決めること自体に意味はない。仮に、「教育」ではなく、福澤が主張する「発育」に置き換えたとしても、「発育」には「発育」のイメージがあり、デメリットも存在する。ただし、「教育」に変わる言葉を考え、対話していくこと自体には大きな意味がある。
このように、「教育」をはじめ、「教育」において当たり前のように使われている言葉を問い直すことにより、私は「教育」のあり方を再考していこうと考えている。
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