喧嘩が増えたのは、初めて異動を経験したその年だった。彼女とは教員になった年の夏に付き合い始めた。それから六年の付き合いだ。年も三十に近づき、結婚を考えだしていた。同棲を始めて一年くらいが経った年だった。
通勤時間が長くなったのもあったかもしれない。これまでは分担していた、家事や洗濯も任せっきりに。二人の時間も取れなくなり、次第に口喧嘩が増えるようになる。ぼくは、仕事から帰ってくるのが精一杯で、その後は何もやる気が起きなくなっていた。
長い付き合いだ、周りからは、「結婚」という言葉もよく聞かれるようになった。その言葉自体がプレッシャーにもなっていたのかもしれない。正直、今の状態では到底考えられなかった。そのタイミングがいつ来るのか、はたまた来ないのか、自分でも分からない。決断に至れない自分が不甲斐ない。そう感じる度に、自分を責める自分が現れる。年齢という迫り来るタイムリミットの中で、彼女の時間を奪っている気持ちにもなってくる。
「別れた方がいいのかもしれない。」
頭にそんな言葉が浮かんでくる。完全なマリッジブルー。ぐるぐると考えては、落ち込み、悲しみ、そして、喧嘩する。悪循環の日々だった。正直にいうと、この辺りの記憶はあまりない。それくらい、精神的に参っていた。
二〇二二年九月十三日。どうしても眠れない夜だった。深夜三時頃だったと思う。
一人、家を出て、とぼとぼと歩きだした。頭の中は、結婚か別れるか、でいっぱいだった。疲れが溜まってきて、頭が朦朧としてくる。新宿駅の近くまできていた。その時だった。
「学校、辞めるか。」
どこからともなく、声が降りてきた。いや、それは、他の誰でもない、ぼくの声だった。驚いた。
「結婚か、別れるか」の問いに対して、まさか思いもよらない答えだった。中学生の頃からの夢だった小学校の教員を、辞める。でも、それが言葉になった瞬間、スッと肩の荷が降りたような気持ちになった。心が動き出した。目の前に彩りが蘇ってきた。
そう、精神的なしんどさの根源は、喧嘩でも、結婚でも、通勤時間でもなく、学校だった。ぼくは、いつの間にか、自分の言葉に気づかなくなっていたのだった。その声に気づいた瞬間、ぼくは自分の言葉を取り戻し始めた。周りの人を、そして、自分自身を大切にできていないのに、何が教員なのだろう。真っ先に大切にしなくてはいけないことがあったのだ。
決して学校が嫌いなわけではなかった。しんどさの根本的な理由は学校の規則とぼくの気持ちとの板挟みであった。
異動してきた学校には学校スタンダードと呼ばれるものがあった。スタンダードとは、学校独自に定められたルールのようなもので、学習道具から、言葉遣い、給食、掃除、ノートの取り方まで、そのやり方が事細かに決められていた。それはある意味、分かりやすい指標になっている。書かれた通りのことを行えば、大人にとっても子どもにとっても安心につながるのである。一年生の頃から、スタンダードの中で過ごしている子どもたちは、実際にとても落ち着いていて、学習に臨める環境が整っていた。学校全体でスタンダードを信じる雰囲気があったし、守っていこうとする働きかけもあった。学校がスタンダードで支えられていたのだ。
一方で、ぼく自身、違和感を感じることも多くあった。そもそも、一斉授業ではない学びのあり方を考えてきた身としては、学習の仕方が決められていることは苦痛だった。スタンダードに従わせるような言葉を子どもたちへかけ続ける毎日も憂鬱。本心とは裏腹に、取って付けたような言葉を使ってその場をやり過ごしていた。一番辛かったのは、自分の言葉を押し殺すことで、子どもたちに嘘をついているような気持ちになっていくことだった。
しかしながら、体験したからこそ、スタンダードが理にかなっていることを同時に感じていた。前任校で学級崩壊したクラスを目の当たりにしたぼくにとって、こうしたルールがあることの安心感は拭いきれなかった。そもそも、四十人近い子どもたちを担任一人で見ることが前提とされているのだ。どの人が、どのクラスの担任になっても、「大崩れしない」ということは、今の学校を成り立たせる上で重要なことのように思える。
結局ぼくは、自分の声を殺しスタンダードに従って教室にいた。そして、そこに居続ければ居続けるほど、ぼくはその矛盾に苦しめられていく。教室と、ぼくの声との板挟みに押しつぶされていった。
「結婚か、別れるか」を迫られたとき、どうにも自分の意志では乗り越えられない事態が発生していたのだった。國分功一郎さんは、『中動態の世界』の中で、この意志について以下のように言及している。
「その行為を誰に帰属させるべきか?」という問いが作用するや、両者は対立させられる。同じしぐさが、行為の帰属をめぐる尋問を受けると、自発的に姿を現したのか、何かによって姿を表すことを強制されたのか、どちらかを選ばねばならなくなる。
そして言うまでもなく、この問いによって前景化されるのが、意志に他ならない。
私は姿を現す。つまり、私は現れ、私の姿が現される。そのことについて、現在の言語は、「お前の意志は?」と尋問してくるのだ。それはいわば尋問する言語である。
「する」か「される」かという、能動か受動かという世界の中で生きてきたぼくらは、常に選択を迫られる。その中で、悩み、苦しみ、そして、疲弊していく。ぼくは、そのとき「する」と「される」ではない世界に確かに出会っていた。
学校を辞める。それが言葉になった瞬間は、ポンッと栓が抜けたようだった。それは、ぼくが意志をもって発したものではなかった。誰かによって言わされたものでもなかった。それはただそこに起きたことだ。中動態。そう呼べるのかもしれない。先の著書の中で、國分さんは、能動態の反対として受動態が用いられたのは最近で、元々は、能動態の反対は中動態であったことを明らかにしている。そして、その対比について、以下のようにいう。
能動態と受動態の対立は「する」と「される」の対立であり、意志の概念を強く想起させるものであった。われわれは中動態に注目することで、この対立の相対化を試みている。かつて存在した能動態と中動態の対立は、「する」と「される」の対立とは異なった位相にあるからだ。
そこでは主語が過程の外にあるか内にあるかが問われるのであって、意志は問題とならない。すなわち、能動態と中動態を対立させる言語では、意志が前傾化しない。
能動―受動は、「行為」に取り憑き、中動態は、「出来事」を映し出す。そうぼくは、出来事の中にいた。いや、出来事そのものになっていたのだ。その出来事に退職がただ起こったのだった。次の日、校長に三月をもって退職する旨を伝えていた。
完全に自由になれないということは、完全に強制された状態にも陥らないということである。中動態の世界に生きるとは、そういうことだ。われわれは中動態を生きており、ときおり、自由に近づき、ときおり、強制へと近づく。〜中略〜
われわれはおそらく、自分たちの思考する際の様式を根本的に改める必要があるだろう。思考様式を改めるというのは容易ではない。しかし、不可能ではない。たしかにわれわれは中動態の世界を生きているのだから、少しずつその世界を知ることはできる。そうして、少しずつだが自由に近づいていくことができる。これが中動態の世界を知ることで得られるわずかな希望である。
退職という道に進み、どこへいくのか。それこそ中動態の世界の中で、「選んだ」というよりも導かれるように出来事は動き出していった。

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