感性と知性 | 教室とは何か

ぼくが大学の卒業論文で研究したのはセンス・オブ・ワンダーについてだった。センス・オブ・ワンダーとは、生物学者レイチェル・カーソンの遺作『センス・オブ・ワンダー』で明示した誰もが生まれながらにもっている自然や社会に対する感性のことである。レイチェル・カーソンとは、『沈黙の春』で、当時、環境問題という考えがなかった世界に対し警鐘を鳴らした人物である。『沈黙の春』の最後の章である「別の道」でカーソンは、以下のように述べている。

 私たちは、今や分かれ道にいる。(中略)長いあいだ旅をしてきた道は、素晴らしい高速道路で、すごいスピードに酔うこともできるが、その行き着く先は、禍いであり破滅だ。もう一つの道は、あまり〈人も行かない〉が、この分かれ道を行く時にこそ、私たちの住んでいるこの地球の安全を守れる、最後の、唯一のチャンスがあるといえよう。どちらの道をとるのか、きめなければならないのは私たちなのだ。

カーソンは、『沈黙の春』を書き終えたとき自分に残された時間が短いことを知っていた。そして最後の仕事として、取り組み始めたのが、この『センス・オブ・ワンダー』の執筆であった。しかし、その願いは叶わず、カーソンは五十六歳でこの世を去ることになる。その翌年、友人たちは彼女の夢を果たすため、『センス・オブ・ワンダー』を出版したのであった。カーソンは、別の道に進む最後の希望を幼い子どもたちの感性の中に託したのであった。

ぼくはカーソンの生涯を追い、センス・オブ・ワンダーとは何かを探究した。その過程で、ぼくは、カーソンとぼく自身とを重ね合わせていた。それはぼくが教員を志したきっかけにもつながっている。

ぼくは五歳の時、母の転勤で小笠原諸島の父島へ引っ越した。東京から千キロメートル離れたこの島。ここでの経験が原体験として今のぼくに大きな影響を与えている。世界自然遺産にも登録されるほどだ、広大な自然がそこにはあった。山奥では、秘密基地を作り。海では、魚たちと一緒に泳ぐ。夜には一面の星空を眺めた。そんな自由な生活が島では当たり前にあった。この環境の中で、ぼくは少年時代を過ごしたのだった。

しかし、そうした島の自由さに対して、ぼくは学校という環境で苦しむことになっていく。父島ではサッカーの文化が根強く、スポーツをする子は皆サッカーをするのが通例だった。他ならないぼくも五歳の頃にサッカーを始めた。低学年の頃はまだよかった。しかし、年齢を重ねるにつれ、次第にその実力が顕著に現れてくるようになっていく。特段、運動神経がよくないぼくは同世代の中でも下手な部類だった。

小学校の六年生の時。休み時間にノーバン(ボールを地面に落とさないゲーム)というものをよくやっていた。ぼくは、狙い撃ちされた末に毎回負け。授業が始まるチャイムが鳴ったあとに遠くに蹴り飛ばされるボールを一人で半ベソになって追いかけていた。徐々に徐々にこうした罰ゲームはエスカレートし「いじめ」へと変わっていった。

腹パンされたり、山から鞄をけり落とされたり。サッカーをきっかけに生まれた序列は、実に強固なスクールカーストへと変貌していった。いじめられる日々は辛かった。ストレスで十円ハゲもできていた。

でも、ぼくはどうしてもいじめてくる人たちのことをどうしても嫌いにはならなかった。小さい頃から一緒に過ごしてきた友達だ。根っからの悪いやつではないことは分かっていた。何か、この環境にそうなってしまう原因がある。そう思っていた。クラスの中からみて子どもながらに感じていたこと。それは、このクラスの誰もが認められたかったということだった。確かに認めてもらい方が下手で不器用なクラスだった。やんちゃなやつも確かにいた。でも、一人ひとり違ったよさがあり、強みがあり、個性豊かなメンバーだった。問題があるクラスと決めつけられ、傷つき、それが「いじめ」という形になって表れたのだった。そして、またレッテルが貼られ、教師との間の溝が深くなっていく。そんな悪循環に陥っていた。

ぼくをいじめていた当人たちと今では、一緒にフットサルもするし「あれはいじめだったよな。」と笑って言い合えるくらい仲良しになっている。ぼくらはぼくらのことをただ分かって欲しかったのだ。

ぼくは、いじめの原因が教師であると考えた。いじめを受けた怒りの矛先を教師の方へ向けたのだ。直接行動には出さないまでも、教師への沸々とした怒りは日に日に大きくなっていった。

中学校に入学して間もなく、ぼくらにとって衝撃的なニュースが目に飛び込んできた。それは、六年生の時の担任が逮捕されたというものだった。この事件は、テレビでも大きく取り上げられ、見ない日はないほどだった。この事件を境にぼくの教師に対する不信感はピークに達した。それからというものぼくらと先生との関係はまるで冷戦状態のようだった。信頼できる先生はいなかった。その頃からだったと思う。ぼくは反骨精神から教員という仕事に興味をもち出していた。「もっとこうすればいいのに」とか、「自分だったらこうするのに」とかいう、自分が教員になったときのことを勝手に想像していた。「子どもたちの気持ちが分かる教師になろう。」いつの間にかそう決心していた。

教員へ抱いていた漠然とした「怒り」は「熱意」へと変わっていた。進路は決まった。高校を卒業したぼくは小学校の免許を取れる大学に進学した。

「この想いを卒論でぶつけたい。」

教室で感じていた違和感を言葉にしたい、そう思ったのだった。 

 ぼくと同じようにカーソンも少女時代を自然がある環境で過ごしている。カーソンが七歳の時、彼女の父ロバートは、町はずれに探索できる広大な森や野原を購入した。そして、教師の経験をもつ彼女の母マリアは、カーソンに自然界の神秘と美しさに気づくように幼少期から教えた。当時のことについてカーソンは以下のように回想している。

 私が、野外のことや、自然界のすべてに興味を抱かなかったことは、かつて一度もありません。(中略)そして、これらの興味は母親から受けついだものであり、母とはそれを分けあったものでした。私は、どちらかというと孤独な子どもで、一日の大半を森や小川のほとりですごし、小鳥や虫や花について学んだのです

 当時、作家志望したカーソンはペンシルベニア女子大学で迷わず英文学を専攻にした。彼女の文才は教授からも高く評価されていた。作家を目指したカーソンの大学生活は順調に滑りだしていたのである。二年生になったカーソンは自然科学の履修過程の中からスキンカー教授の生物学を専攻した。それが、彼女の人生を変える生物学との出会いだった。カーソンの伝記を執筆したリアは大学での生物学との出会いについて以下のように述べている。

 

スリンカー教授の講義はもともと自然界の生き物に親近感をいだいていたレイチェルの心に火をつけた。そこには、彼女が知りたいと思っていた自然界の不思議を解く鍵が秘められていたのである。(中略)彼女の講義のひとつひとつが、レイチェルが体験してきた野外のことがらの科学的な解説であった。

しかし、当時は、文学と科学は交わることがないと考えられていた。そのため、カーソンは作家になるか、科学者になるか迷うことになる。卒業を間近に控えた三学年の後期、カーソンは主専攻を生物学に変更する決断をしていた。

 幼少期に自然の中で育まれたセンス・オブ・ワンダーは後に、何かを知りたいと思う熱意に変わっていく。カーソンが生物学に熱中したのと同じように、ぼくも「教室とは何か」という問いの中で、教育学にのめり込んでいった。

四年生になったときぼくの書いたこの卒業論文は、教育学科の中で優秀賞に選ばれた。学科の人数が少なかったのもあったが、それでもものすごく嬉しかった。大学の先生たちに自分の気持ちが伝わった、分かってもらえたというのが何よりの喜びだった。ぼくがカーソンのことを調べていて一番興奮したのは、カーソンの生涯と教育学とが合流した瞬間だった。

 当時、カーソンが過ごした二十世紀初頭のアメリカでは、ディバティ・ハイド・ベイリが中心に提唱したネイチャースタディー運動が注目されていた。ネイチャースタディーは十九世紀末の農業不況に危機感を抱いたベイリなどが子どもに自然に対する思いやりを植えつけようと行われた教育運動であった。母マリアは、このネイチャースタディーを用いて、カーソンに自然との関わりを教えていた。『センス・オブ・ワンダー』は、カーソンと甥のロジャーが共に自然の中で過ごす日々がエッセイとして描かれているが、それは彼女自身が、母と過ごした日々そのものであった。

ネイチャースタディーがここまで広がった背景には、ベイリの方向付けによる貢献がある。べイリは、ネイチャースタディーをルソーやフレーベルのような偉大な進歩主義教育思想家の思想が実を結んだもの、教育学の理想と考え、農業技術をあからさまに教えるのではなく、子どもが身の回りの自然環境を注意深く観察する過程に基礎を置くものとしている。この運動はこうした教育という方向付けにより、アメリカの教育思想の主流であった「為すことによって学ぶ」というジョン・デューイの進歩主義教育の流れに乗り、急速に広まっていったのだった。

つまり、センス・オブ・ワンダーで描かれていることは、経験主義教育の祖、デューイの教育に通じていたのだった。そうした社会背景の中で、レイチェル・カーソンという偉大な人が育っていったというのも感慨深い。

卒業論文を書いていく過程で、ぼくにとっての学びは楽しいものに変わっていた。自らのセンス・オブ・ワンダーが蘇ってきているのを肌で感じていた。

さて、カーソンの生物学に対する熱意は、社会に対する使命へと変わっていった。カーソンは、自然に生きる小さな生き物の生命を守るために、自分自身が書くほかないと思い『沈黙の春』の執筆へと取りかかった。調べれば醜い事実や野蛮な行為は多く見つかった。母の死や、癌の発見などの苦しみを乗り越えてまで『沈黙を春』を書き終えたことからもその使命感の強さを窺い知ることができる。『沈黙の春』の冒頭にはこうある。

 自然は、沈黙した。うす気味悪い。鳥たちは、どこへ行ってしまったのか。みんな不思議に思い、不吉な予感におびえた。裏庭の餌箱は、からっぽだった。ああ鳥がいた、と思っても、死にかけていた。ぶるぶるからだをふるわせ、飛ぶこともできなかった。春がきたが、沈黙の春だった。いつもだったら、コマツグミ、ネコマネドリ、ハト、カケス、ミソサザイの鳴き声で春の夜は明ける。そのほかいろんな鳥の鳴き声がひびきわたる。だが、いまはもの音一つしない。野原、森、沼地−みな黙りこくっている。(中略)

 病める世界−新しい生命の誕生をつげる声ももはやきかれない。でも、魔法にかけられたのでも、敵におそわれたのでもない。すべては、人間がみずからまねいた禍だった。

 ぼくもこのカーソンと同じように教育に対し使命を感じている。武田信子さんは教育学について以下のように述べている。

 

 教育学という学問は、広範な対象を扱うが故に学問としてのアイデンティティの確立が難しく、時に『高尚な学問ではない』という扱いを受け、諸学問の中で教育学者の地位は相対的に低くみなされがちであった。そのようなこれまでの歴史の中で、統計的な数値や先行研究・先行実践の詳細な分析を重視し、一定の科学的手続きを踏み込んだ研究のみを研究として高く評価することによってその学問的位置づけ確保しようという研究者たちの意識があったように思われる。

 しかしそのような研究に価値をおけば置くほど、教育学は現場から遊離し、現場や一般社会から教育実践に直接役立つものとはみなされなくなった。

 

 そして、改めて教育学という学問を考えるにあたり、「教育学や教師教育学は、今、目の前の子どもたちや教師たちの現場から学び研究するという原点に立ち返る必要があるのではないか。(中略)現場でなされている教育とそこにいる教師と子どもたちに起きていることからこそ、現場の課題解決に役立つ知見や理論が生まれるのではないだろうか」と言う。目の前の子どもたちや教師たちの現場から学び研究すること、ぼくがこの本で試みたいこともこれであった。更に言えば、「教室」という枠組みすらも一度分解し、あなたとわたしから、いかなる教室が生まれてくるのか、ということを知りたいのだ。

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