教室が好きだ。
まさかこんな愛の告白から書き始めるとは思わなかった。なぜならぼくは今年、その教室を離れたからだ。それはまるで振り子のように「ああでもない、こうでもない」とあっちにいったりこっちきたりした末の選択だった。この書き出しもそうだ。書いては消しての繰り返し。やっと絞り出した言葉だった。ぼくは、ゆらぎ、迷い、もがきながら教室に居た。それは苦しくもあり、本当に楽しい時間だった。
小学校教員として六年間、オルタナティブスクールで二年間。教員という立場で教室を過ごした。それ以前もそう。小学校、中学校、高等学校、そして大学と。児童、生徒、学生として教室の中で過ごしてきた。立場を変えながらもずっと教室という空間に生きてきたのだ。小学校を入学した日から今日まで、およそ二十五年間を過ごした教室を離れるのだった。
節目の年。これまでの思い出と葛藤をありのままに書こうと思った。次なる旅へ歩みを進める前に教室という旅の終わりの荷解きをしたい。
これは恥ずかしながらも、ぼく自身の教室を巡る一つの自伝的な語りになっていくのだろう。「語る」とは「かたよる」ことだとどこかで聞いたことがある。教室での日々をぼくが感じたままに、偏ったまま書き連ねていきたいと思う。
その一方で。ぼくのただの思い出話だけにとどまらない語りにしたいとも思っている。ぼくはぼくの教室で過ごした日々の意味について問いてみたいのだ。この本の題を「教室とは何か」にしようと決めたのにもそんな想いがあった。
ぼくは「教室とは何か」という問いをずっと持ち続けて教室にいた。この問いと真正面に向き合い続けて、ゆらぎ、迷い、もがいたのだった。
最初に言っておくと「教室とはこういう場所である」という答えを導き出したわけではない。「よい教室とはこういうものである」という主張をしたいわけでもない。その姿を追い求め続け、この途方もない問いを、この語りを聞くあなたと共に考えてみたいのだ。
ぼくが教室のことを好きな理由。それは、その好き嫌いや思い出の大小はあれ、その空間のイメージを、あの原風景を、多くの人が共有できるところだ。教室という場所を出発点としながら「その人」を、あなたを知ることができるからだ。ぜひ、あなたの教室とぼくの教室とを重ね合わせながらこの本を読んでみてほしい。そして、重ならなさを感じながら読んでみてもほしい。結論を言えば、これがぼくの「教室とは何か」を問い続けて唯一見つけることができた一つの道だった。
「ああでもない、こうでもない」と揺れ動いてきた教室の日々をありのままに語る。その時に一つ試みたいことがある。「もくじ」を見てもらうと分かりやすいかもしれない。今回、それぞれの副題に「〇〇と××」というようにある意味で対極となる言葉を置いてみた。これは、そのどちらかに優劣をつけ「こちらが正解」というものを示したいわけではない。むしろその逆。答えをもつことをはじめから放棄し、両極端な二つを軸に「ああでもない、こうでもない」という思考をもう一度してみたいのだ。ぼくはそうすることでしか生まれない、言葉として表すことが難しいものをどうにか描き出してみたかった。そこで映し出されるのは、両極端の間にあるものかもしれない、不意に浮かんだ全く別の「何か」かもしれない。はたまた、その対極だったものが上手く溶け合ったものかもしれない。何にせよ、そうした「ああでもない、ここでもない」の過程にしか生まれないものがあるはずなのである。そして、その過程を「あなた」が重ね合わせることでしか生まれないものも確かにあるはずなのである。これがこの本で試みたいことである。
つまりぼくは、どこか一般的で客観的なエビデンスをもとにして教室を映し出したいわけではなかった。それでは教室の姿に迫ることはできないとすら思っている。つまり、ぼくの自伝的で偏った語りにこそ「教室とは何か」を明らかにする道があるのではないかと考えているのだ。いや、ぼくだけじゃない。あの思い出の日々を生きた誰にも、その道が開かれている。教室とは何か。一緒に見つけにいこう。

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