四年生の担任になった。その年の主任の先生は、人それぞれの持ち味を大切にする先生だった。
「これで岩瀬さんのような実践ができる。」
嬉しかったことを覚えている。早速、ぼくは、畳を敷き、本を沢山教室に置いた。自由進度学習やブロックアワー、探究の時間(当時は、クエストタイムと名付けていた)、振り返りジャーナル。様々な実践を取り組み始めた。憧れた岩瀬さんの真似をし始めたのだった。これで上手くいくと思っていた。しかし、そう簡単にいく訳がなかった。
こうしたある意味で自由になる実践は、一方で、学びの責任を子どもたちが負うことになる。そうなるとただ何もしない子たちがでてきた。ぼくはそうした姿に苛立っていた。
「しっかりやりなさい。」
上手くいかない苛立ちをいつしか子どもたちに向けていた。気づかない内に気になる子を集団の中に馴染むようにした。教師になる前は、号令をかけたり整列をしたりすること、チャイムすらも「糞食らえ」と思っていた。統率することに違和感をもっていたのだ。いつの間にか真っ直ぐ綺麗に並べていることや、チャイムがなったら席に全員が座っていることを強いている。そして、それができるようになった子どもたちの姿を見ることで、安心している自分がいた。「その子」の姿がだんだん見えなくなっていた。自分自身がなりたくなかった教師に自分がなっていた。ぼくのもっている集団としての意識は根深い、そんな気付きだった。
ぼくは岩瀬さんの実践さえすれば上手くいく、そう思っていたのだ。それは全くの間違いだった。岩瀬さんは後の本で「僕が『作家の時間』とか『リーディング・ワークショップ』が好きなのは、そこに個人の好みが出るからなんです」と言っている。ぼくができていなかったことだった。ぼくは一つの手段を目的化し、それをやれさえすればいいなんて思っていたのだ。その前に考えるべきは、「その子」であるはずだ。大切なのは、崇高なやり方ではない。ぼく自身のあり方だった。
ある日のこと、一人の転入生が入ってきた。
その子は、過去にいじめを受けていた。その経験からか彼は初めて関わる人を敵とみていた。毎日誰かとトラブルになっていた。ある日、何かのトラブルからその子のことをきつく叱ったことがあった。
彼が怒りと共にそう吐露したのだった。
「学校は我慢するところだ」
その言葉を聞いた時、小学校時代ぼくを思い出していた。彼は、この教室で居場所を見つけられるのだろうか。我慢はでない道を見つけられるのか。そして、クラスの皆との関係を緩やかにすることはできるのだろうか。その言葉からぼくは、「やり方」ではない別の道を模索し始めた。
ある日、ひとりの子が家からディアボロを持参してきて「教室でやりたい」と言い出した。正直に言えば教室でやるのは危ない。しかし「使っちゃダメ」というのは簡単だ。更に言えば、彼もディアボロに興味を示しているようだった。彼は、何かにハマるとそれを追求していくことがあった。ディアボロがもしかすると、彼と友達をつなぐ一つのきっかけになるかもしれない。ぼくは悩んだ。そして、どのようにすればディアボロを使うことができるのかを子どもたちと共に話し合うことにした。教室で使うことの危険性もしっかりと伝えた。どのような約束であれば使えるのか、それを一緒に考えた。いくつかのルールが決まり、ディアボロで遊ぶことのできる教室が始まった。全員で話し合ったからか、ぽつりぽつりとディアボロをやる人が増えていく。
どうすれば、この活動がもっと盛り上がるだろうか。そしてぼくは、週に一度、発表する機会を設けることにした。もちろん発表するものは、ディアボロに限らない。子どもたちはみんなに見せたい何かの成果をそこで表現することができる、そんな時間だ。
発表する時間があることで、ただの遊びだったディアボロが人を喜ばせようとするものへと変わっていった。子どもたちはディアボロ会社なるもの立ち上げ発表に向け練習に打ち込んでいた。休み時間に楽しそうにワイワイと練習している様子が広がっていく。こうしてディアボロはクラス中でブームになったのだった。休み時間になると、クラスの半数は練習している姿が見られるようになった。他ならない彼もその一人だった。同じ遊びを一緒にすることで少しずつトラブルも減ってきていた。変わったのは彼だけじゃない。周りの友達も彼のことを理解し始めていた。彼は、ディアボロにハマっていった。家でも練習をし、ついにはクラスで一番上手な存在として、認められていった。練習を取り組む中で、教え合う姿が見られるようにもなった。発表も会を重ねるたびに工夫が見られるようになっていた。何人かのグループになったり、音楽に合わせたり、技のタイミングも合わせたり。これは岩瀬さんの実践でない。これは確かにぼくらが共に作り出した時間だった。学年での最後の発表会。最後に発表した彼の演技の終了後にアンコールがかかる。ディアボロをもつクラスの半数以上がステージに上がりそれぞれが思い思いの技を披露した。その中心には、彼が笑顔でディアボロをしている姿があった。
年度当初のぼくは、個を育てようと実践をし始めていた。しかし、四十人近い子がいる中で、一人一人を見とることほぼ不可能だった。ぽつりぽつりと自由に行動する子どもたちの姿に焦ったぼくは、少しずつクラスを統率しようと集団として見るようになっていった。個と集団をめぐり、ぼくは揺れ動いていた。個と集団のバランスが取れた状態を目指してあっちにいったりこっちにきたりを繰り返していた。一方で、バランスとは違う考え答えが生まれていた。
ぼくのバランスのイメージは天秤だ。個と集団が別の要素としてあり、二つのお皿の上、それぞれに個と集団が置かれている。天秤が水平になっている。それがバランスの取れた状態。もしある拍子に個が重くなって、天秤が偏ってしまったら、バランスをもとめて、集団の重さを足すことになる。そして、集団の方に重さが偏っていく。そしてまた、個の重さを足して…。ぼくがやっていたことはまさにそういうことだった。ぼくは、バランスを取ろうとすることで、右往左往することをしていたのだった。彼の姿から学んだこと、それは、個と集団を別の要素として、それぞれ違うお皿に乗せない、ということだった。個と集団を一つのテーブルの上に載せるのである。「ひとり」でもなければ「みんな」でもない、それはどういうことか。言葉にするならば「ひとりひとり」。強いて言うなら、「ひとりひとりひとりひとり…」。そうした繋がりの中で、彼は教室で自分の居場所を獲得していったのだった。
「ひとりひとりひとりひとり…」この考えが浮かんだ時の当時のぼくは、バランスを取ろうと右往左往することについてあまり良くないことだと考えていた。これは、教育改革の振り子でも言われていることだ。「社会のためか」「子どものためか」と右往左往してきた日本の教育に対して批判的だった。でも、この考えが今、少し変わってきている。そのきっかけとなったのは、生物学者、福岡伸一さんのバランスの考え方である。福岡伸一さんは、生命のバランスを動的平衡と名付けこう説明する。
「生きている」ということは、体の中で合成と分解が絶え間なくグルグル回っていることなんです。この流れこそが、「生きている」ということ。〜中略〜シェーンハイマーは、「生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である」と新しい生命観を誕生させました。私はこの概念は非常に大事で、機械論的な生命観に対するある種のアンチテーゼになるのではないかと考えて、「動的平衡」と名づけました。平衡とは天秤という意味です。絶え間なく動きながら、バランスを取っている。これこそ生きているということのもっとも大事な側面ではないかと。
絶え間なく動き続けることが、バランスをとることになる。これは生命として、動き続けることの重要性を指摘している。教室とは、教育とは、生命の営みではないだろうか。そう考えるならば、「社会のためか」「子どものためか」と右往左往してきたことに意味があったのではないか、という気がしてくる。いやむしろ、右往左往することによって教育が成り立ってきたとは言えないだろうか。ぼくの中に新たな問いが生まれてきていた。今まで教育の問題だと思っていたことが、むしろ教育を支えてきていたのだとしたら…。そう考え始めたとき、ぼくは、教育という内側のことではなく、むしろ、その外側のことを考え始めていた。
学校のブラック化がメディアでも取り上げられるようになった。それと比例するかのように教員採用試験の応募者は、減少の一途を辿っている。人を育てる場であるはずの学校が、人が人としていられないというギャップを抱えている。
教師になり気付いたことは、そうした学校が抱えるシステムの問題だった。教師に怒りをもって教職を選んだが、現状を知れば「教師が悪い」では済まされない問題が山積していた。
学校には、素敵な人がたくさんいた。中には苦手な人もいたけど、悪い人ではないことは確かだった。それぞれがそれぞれの想いをもって子どもたちのことを考えていた。でも、そんな大好きな人たちも教室に入るとひとたびぼくの嫌いだった「先生」のようになってしまう。他ならぬぼく自身もそうなっていた。
不登校、いじめ、小一プロブレム、落ちこぼれに吹きこぼれそうした問題をどうにかしようと行われる正義は、本当に先生たちを救うのだろうか。こうした問題、一つ一つの解決策は、教室における「大切なこと」を増やしていく。それは、「大切なこと」であるからこそ、その全てが「大切なこと」として行われていく。
「子どもためだから」そう言われると反論が更に難しくなる。どんどん子どものために取り入れられていく施策は、先生たちの首を絞めていく。「子どもため」は確かに大切だ。ぼく自身も、「子どもの気持ちがわかる教師になろう」と思って教員になった。この利他の精神はぼくらを突き動かす原動力でもある。
利他とは土のようなのだ。 そして、ぼくら生命である植物にとって土は、成長する為に必要不可欠だ。でも一方で、土がぼくたちに覆い被さってきてしまったら。たちまちぼくたちは枯れてしまう。利他の怖さ、「子どものため」が生む恐ろしさはここにある。
ことあるごとに名付けられるマジックワード「〇〇教育」。そのどれもが善意をもって取り入れられた「大切なこと」だ。プログラミング教育も、英語教育も、道徳の教科化も、探究学習も。その意味に耳を傾ければ、その全てが「なるほど、それは大切だ」と一定の納得ができるし、そこに込められた想いを否定することはできない。いや、むしろ、その想いこそが、ぼくは教育が教育として、失ってはいけないことだとも感じている。
しかしそれは、ただでさえパンパンなリュックサックに更に荷物を詰め込むようなことになっていく。旅に出るために必要なものが増え続け、いつの間にか、身動きが取れなくなるほどの重さになっていく。先生たちはその全てを背負いこみ、次第に笑顔を失った。子どもたちの笑顔を守るための施策は、子どもたちの周りにいる大人たちの笑顔を奪っていった。教室の中にいる限り、ぼくはこの矛盾をどうしても解くことができなかった。教師という仕事は、そんな沢山の荷物を持たされた上で、多くの子どもたちを一人で見なくてはならないのだ。
教師に怒りをもって教員を志した自分は、今、全く反対のことを思い始めていた。ぼくは、先生たちの助けになる働き方を考え始めていた。
その年ぼくは、算数の専科になり高学年を教えることになった。担任という立場から変わり、また教室の見える景色が変わった。その子たちと過ごす時間は、基本的には算数の授業の時間のみ。その時間の中で、いかに子どもたちのことを知れるのかが勝負だった。五、六年生の二学年分の見ることになるので、関わる人数も多い。限られた時間の中で、いかにその子のことを知ることができるのか、挑戦の日々だった。空き時間も学校中を歩いた。廊下に出ている子どもたちの話を聞いたりもしていた。学年という括りもなくなったことで、色々な先生たちともコミュニケーションをとるようにもなった。自分の教室がなくなったことで、その視野は学校全体へと広がっていった。あの人は何を必要としているか、廊下にいたあの子にできることは、隣の教室の様子をチラッと見に行こう。小さなつながり積み重ねることで、その人の居場所ができていく、そんなことを願いながら、過ごしていた。ぼく自身教員としての働き方が確かに変わっていっているのを感じていた。
何ヶ月か経ち、六年生の学年の雲行きが怪しくなってきた。担任との関係が崩れてきて、学年全体が荒れてきていた。ぼくにできることは何か。担任ではない立場だからこそできることを模索した。できる限り教室に入り、外の人間だからできる子どもたちとコミュニケーションをとった。先生たちの苦労も痛いほど分かった。
ついに一人の先生が病休に入ることになった。ぼくは、そのクラスの社会も受けもつことになった。誰が悪いでもない。ぼくには、この学校のシステムによって子どもと先生との関係性が崩れていっているように思えてならなかった。

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