学校② :「学校」は何をするところ?

 続いて「学校」は、果たして学ぶところなのかという問いである。コロナ禍により全国の学校が一斉休校となったが、ここで問題になったのは子どもの学びのことではない。一部では、「学びを止めるな」というスローガンのもと、子どもたちの学びを支援する取り組みがなされていたが、それはどちらかというと「学校」ではなく民間セクターの話である。実際に「学校」で行われていたのは、仕事を休めない保護者のいる子どものための居場所と昼食の提供である。もちろん、学びの支援として学習動画を作成してホームページにアップしたり、穴埋め式のワークシートを作って各家庭に配布したりもしたが、ほとんど意味をなさなかったというのが実情であろう。というよりは、今までの「学校」が、動画やワークシートがないと学べない子どもたちを育ててきてしまったという事実を浮き彫りにしたことで、逆説的に「学校」が学びの場所ではなかったことを証明してしまったともいえるのではないか。

 話を戻すと、コロナ禍での休校中に「学校」が担っていたのは、居場所や昼食の提供といったいわば福祉的な役割であった。それは、休校中ではなくてもいえることだ。「学校」は朝8時ごろから15時ごろまで子どもを預かり、「給食」も提供する。では、「学校」は「教育」と「福祉」の場所であるかというと、そんな簡単なことではない。研修などでよく耳にする言葉に「教師は五者たれ」というものがある。ちなみに、誰の言葉かは不明らしい。この五者とは一般的に「学者」「医者」「役者」「易者」「芸者」である。「学者」となると、「学校」は「教育」機関であるのと同時に研究機関でもあることを期待されているのか。「医者」となると、病院の機能も備えていなければならないということだろうか。確かに保健室では怪我の応急処置や病気の初期対応を担っている。また、ここでいう「芸者」は子どもに寄り添う者として位置づけられているため、心のケアだろうか。近年では、心のケアはスクールカウンセラーも担うようになってきたが、病院と同様に医療機関にの役割に近いだろう。「役者」でやっと「学校」らしい役割が出てきた。しかし、「役者」は教えることに重きが置かれているような印象があり(しかも一斉授業)、子どもの学びをサポートするという黒子的な役割ではなさそうである。そして「易者」はなんと占い師のことである。子どもの未来を見通すということらしいが、「教師」すなわち「学校」は、そんなことまでしなければいけないのかと思ってしまう。さらに、廊下を走ったり校則違反を取り締まる警察官、喧嘩の仲裁をする裁判官、電話対応や書類作成をする事務職員の枠割までもこなしていることになる。教員の本来の役割については後述するが、何が言いたかったかというと、「学校」は「教育」や福祉以外にも様々な役割が求められているということである。

こんなに役割があったらパンクしてしまう。そこで、こう考えるのはどうだろう。「学校」は学ぶ以前に、生活する場所であると。生活というと小学校では「生活科」のイメージが強いため、「生きる」と言い換えてもいいだろう。「学校」は子どもたちが集団で生きていく中で、結果的に学びが生まれるという構造ではないだろうか。

先述した福沢諭吉の『文明教育論』に話を戻そう。福澤は『学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。』と述べていた。また、『学校の本旨はいわゆる教育にあらずして、能力の発育にあり』とも主張している。彼も「学校」は「勉強」を「教える」ところではないと考えていた。むしろ、「教える」というはたらきかけではなく、発達を妨げないために余計な介入をしないようにすることが大切とも読み取れる。ここは私も同意見である。子どもたちは、こちらが「教える」ことをしなくても、様々な経験を糧にして自然に発達していく。まるで植物のようである。我々大人や「学校」の職員の役割は、その発達を邪魔しないように見守ることなのではないか。

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