人類学者・霊長類学者で京都大学名誉教授の山極寿一さんは、週刊朝日2014年8月8日号で『人間以外の動物は、教育をしません』と主張している。また、『人間が教育するのは、高い共感力があるからです。将来自分がどうなっていたいかを描き、目標を立てることができる。その思いで進むうち、他者の知識の欠陥を埋めたいと思う。つまり教育とは『おせっかい』なんです。』とも述べている。
また、日本を代表する心理学者の河合隼雄さんは『子どもと学校』で、『あっちへ行っては「やめなさい」と言い、こっちへ行っては「こんなふうにしてはどう」と教え、大活躍をしているように見える先生は、「専門家」とは言えない。「あの子、あれで大丈夫かな」、「けんかをしているけれど、もう少し子どもたちに任せてみよう」などと心の中が大車輪で動いていても、落ち着いてそこにただいるだけというのが、理想の教師と言えるのではなかろうか。』と述べている。
昔、同僚から、「なんでけんかをしているのに止めないの?けがしたらどうするの?」と言われたことがある。その時はうまく言葉にすることができなかったが、今はこう考えている。まず、家や公園ではなく、「学校」の「教室」で「先生」の見えるところでけんかをするということは、「その子にとっては」それなりの理由があると考えるのが自然であろう。そして、けんかを止める/止めないは、白か黒かの世界ではない。先ほども触れたように、その場に「先生」である私がいることで、ある程度の抑止力になっている。これは、広い意味ではけんかを止めることになっていると考える。それだけではない。けんかをしている子どもたちの方に視線を向けることも「止める」行為の一種である。その時の表情や仕草でもメッセージを発することができる。たとえば、「先生」が険しい顔で腕を組んで仁王立ちをして見つめていたら、小さなけんかであればおさまる。仮に、当事者たちは気づかなくても、周りの子が止めてくれることだってある。さらに、近づき方、どんな言葉を、どんな声の大きさ、どんなトーンでかけるかによっても、与える効果は変わってくる。
「けんかを止める」とは、けんかをしている子どもたちを物理的に引き離すことだけではない。もちろん、それが必要な場合もある。誰と誰が、何がきっかけで、どのようにけんかをしているか。見守っていても大丈夫なのか、今すぐ止めに行かなければならないのか。それを見極めるのが「子ども理解」「児童理解」の一部であると考える。
また、河合さんは子どもを育てるときには、植物の成長を楽しんで見るような態度を身につけると、楽しみが増えてくると述べている。そしてその営みを、河合さんは作家の遠藤周作氏の言葉を引用して、「くるたのしい」と表現した。私にとって「教育」とは、葛藤しながら子どもを見守り、ときにおせっかいを焼いてしまい後悔する、そんな「くるたのしい」営みなのである。
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