授業:「授業」は誰がする?|やぎの教育辞典

 「これから、○時間目の□□の授業を始めます!よろしくお願いします!」学校では、チャイムが鳴ると、どこかしこの教室から日直の子どもの号令が響いてくる。私も以前は日直の仕事として、この号令をかけさせていた。でも、よく考えるとこの号令には矛盾が潜んでいる。(「号令」に関しては改めて触れたい。)まずは、「授業」という言葉である。「授業」は「業を授ける」と書く。では、この言葉の主体は誰だろうか。いうまでもないが、それは「授業者」である教員である。となると、授業を受ける側の子どもが「授業を始めます」というのは矛盾している。

 次に、「よろしくお願いします」である。子どもが「授業者」に自ら教えを乞うのであれば、理解できる。しかし、日直の仕事として、子どもの意思に関係なく「言わされている」時点でよくわからないことになっている。ましてやGIGAスクール構想により1人1台端末が実現した現代において、「勉強」を教えることについては「教員」の存在は必須ではなくなってきている。もちろん、学びの環境をデザインしたり、子どもたち同士の関係をコーディネートしたり、学びのリソースになったりと、「授業」する以外の役割はたくさんある。むしろ、これからの時代の「教員」には「授業」をすること以外の役割が求められるだろう。

 また、「教員」は子どもたちがいないと、その存在価値はなくなる。そう考えると、「よろしくお願いします」を言わなければならないのは、子どもではなく「教員」の側なのである。

 子どもが主役の学びを実現するためには、普段何気なく使っている「授業」という言葉を見直してみることから始めたい。

書いてみる

タイトルとURLをコピーしました